眠い。
ものすごく眠い。
ここ一週間というもの、いつもの半分くらいしか寝ていないから、まぶたに重りが乗っているような気分だ。
目を開けていたくても開けていられないし、休憩しようと座ったとたんに時間が飛ぶ。
みんなに迷惑はかけたくないからできる限り元気に、とは思うものの、やたらと正直な身体のおかげで夜更かししていることは完全にばれてしまっているらしい。
ククールに頭を小突かれた…気がする。振り向いてみると憮然とした顔でこっちを見ている…よね?
あまりに眠すぎて状況の把握もできなくなってきている、まずいな、これじゃ本末転倒…
「エイト!後ろ!」
ゼシカの声に思わず身体が反応する。放った一撃はあっさりと魔物を切り裂いた。
…そう、確か一昨日までは倒せなかったはずの敵。どうやら成果は出ているらしい。
ほっと胸をなでおろすと、また眠気が襲い掛かってくる。でも、さっきの手ごたえじゃまだ足りない。

自己犠牲呪文。
ヤンガスがこの間覚えてしまった大技だ。
自分の命と引き換えにその場の全員を完全に回復する、そう本に書いてあった。
僧侶でもないのになんで、とみんなは笑っていたけれど。
今までは言葉だけで済んでいたものを、彼はもう、形にできる。
だから、怖い。

みんなが寝静まったのを確認し、こっそりと宿の窓から抜け出した。満月の光と風が心地いい。
僕があんまり眠そうにしているからと、今日はかなり早い段階で宿を取った…らしい。
部屋に入るなりベッドに突っ伏してしまったせいもあって、その辺のことは良く覚えていない。
目を開けたら既に夜半、ふくろうの鳴き声がうっすらと聞こえてくる。
ここ数日間、僕が一番気合を入れている時間帯だ。
注意深く辺りを見回し、人気がないのを確認すると急いで街の外に出る。
門から離れるたびに浮ついた気配が増えてくる。気づかない振りをして一歩、また一歩、膨れ上がった敵意に近づく。
雑草を切り裂く音、後ろだ。それを合図に散らばっていた魔物がいっせいに飛び掛ってきた。
走る音を基準にして倒す順番を判断し、一体一体切り結んでいく。昨日よりも効率よく倒しているのが自分でわかる。
この調子なら、いや、でもまだだ、安心なんかできない。
それに、昼間に比べると動きが硬い。緊張のせいだろうか?そろそろ慣れてもいいはずだけど。
息を整えて、次の陣を探す。
けれど次に来たのは敵意ではなく、締め付けられるようなあたたかい気配だった。
「なるほど、そういうことでがすか」
「…気づかないように出てきたつもりだったんだけどな」
「足を洗ったとはいえ、あっしは元山賊でがすよ。気配を消したり悟ったりは専門分野でがす」
「そうみたいだね…つけられてたの、全然わからなかったよ」
剣を下ろし、ヤンガスの方向に向き直る。…一番気づかれたくなかった相手だ。
「こんな時間に鍛錬でげすか?なにもこっそりやることでもないのに」
「うん、まあね」
曖昧な笑みを返す。できるならこれ以上聞いて欲しくないのだけれど、そうもいかない。
「…ちょっとね、強くなりたくて。昼間にやるとみんなに負担がかかるから。あれだけ眠くなっちゃ意味がないんだけど」
「みんな心配してるでがすよ」
「うん、ごめん」
「そこまでする必要があるんでげすか?」
心配する気持ちを隠さない彼の表情に、左胸の奥が痛む。
頭ではわかっているんだ、ただの杞憂なんだって。
「…ある。大笑いされるような、くだらない理由」
「そんなの聞いてみなけりゃわからないでがすよ」
ヤンガスの問いに首を振る。だめだな、どんどん無防備になっていく自分がいる。
張り詰めた糸が網になって、不思議な感覚が包み込まれる。と思うと、手のひらを返すように、また不安になってのしかかってくる。

もし、その状況が来たなら。彼は迷わずあの呪文を使ってしまうだろう。
そうやって目覚めたとき、僕は残されたあたたかさを前に、正気でいられるだろうか?

漂い始めた感情を追い払うように首を振り、力の抜けた手を再び握り締める。
「大丈夫、だからさ。ヤンガスは宿に戻って休んでてよ。僕、もう少ししたら戻るから」
「だめでがすよ。理由を聞くまで戻らないでがす」
「秘密じゃだめ?」
「だめでがす」
「どうして?」
「兄貴、肩に余計な力が入ってるでがすよ。どう考えても普通の鍛錬じゃない」
言われて初めて、肩が上がっていることに気づく。確かにこれじゃ動きも鈍くなる。
あまりに適切な指摘に思わず苦笑いが出た。かなわないな、とため息が続く。
「…まあ、普通の鍛錬だったらこんな時間にはやらないね」
「一体何があったでがすか?あっしにはちっとも見当がつかないでがすよ」
「何もないよ。今は何もないんだ」
そう、今は何もない。あれはあくまで最終手段で、使われることはないはずで。
だけど、敵の強大さを考えたら、可能性はゼロじゃない。そして、僕らが弱ければ、可能性は一瞬で100に変わる。
ヤンガスの表情が曇る。多分僕が泣きそうなほど眉をひそめてしまったからだろう。
あまりにも馬鹿馬鹿しいのだけど、想像だけで全身が震えてしまう。
唇を噛み締める。
「…まあ、兄貴が何もないって言うんなら、聞かないほうがいいのかもしれないでがすが」
黙ってしまった僕に気を使ってか、ヤンガスが遠慮がちに言葉を続ける。
「こんなとこで言うのもなんですが、あっしは兄貴のためなら命だって惜しくないんでがすよ。
それだけに、兄貴が無茶してるのを黙って見てるのも心苦しいわけで」
知ってる。ヤンガスがどういう人なのか、どういう心の持ち主なのか、痛いほどによくわかっている。
だから僕は彼を止められないし、止めたとしても聞くことはないだろう。
「ほら、なんでがすか、この間覚えた大技もあるし。兄貴がそんなに無理しなくったって」
「ああ…メガザルね」
「そうそう、そんな名前でがしたか。あれがありゃあ、あっしは最後の最後まで兄貴を守れるでがすよ、だから安心してくだせぇ」
「そのことだけど」
予想通りの反応を聞いて、思わず声を絞り出す。肋骨が締め付けられるような苦しさで一杯になる。
「…絶対、使わせないから、あの呪文」
「なんででがすか?あれだけの大技がありゃ、いざってときに相当役立つでがすよ」
「いざってときなんか、来ない。来させない。絶対に」

不思議そうな顔をして覗き込んでくる。いろんな感情がないまぜになっているから、多分表現できないような表情になっているだろう。
前向きなのか後ろ向きなのか自分でもよくわからない。
冷静に考えて、体力の面から言っても、今の時点で強大な敵を相手に最後まで残るのはヤンガスだ。
そして、もし全滅が近くなったなら、彼は倒れた仲間のために迷わずメガザルを使うだろう。
それは当然のことだし、下手な予想よりもずっとリアルに想像できる。
だからこそ、それが怖い。そんな風に彼の心を見せられたら、間違いなく悔しさで気が狂う。
命を賭けたあたたかさなんて、受け入れられるわけがない。
ヤンガスから視線をそらし、睨むように足元を見る。さっき斬った魔物の血でぬれた靴が冷たい。
なんとしても止めなければと散々考えた挙句思いついたのが、強くなることだった。
どんなにギリギリの戦いでも、強い仲間がもう一人立っていたなら、彼が自分を犠牲にする必要はない。
究極の手段を覚えてしまったヤンガスに、僕ができることがあるとするなら、それくらいだ。

「あんな優しい呪文、絶対に使わせない」
呻くようにつぶやいた台詞が聞こえたんだろうか、ヤンガスが目を丸くしている。
何か反応を返される前にと、あわてて次をつなぐ。
「言ったじゃないか、たいしたことない理由なんだよ。僕が勝手に想像して、勝手に怖がって、勝手に強くなりたがってるだけ」
「だったら、あっしも手伝うでがすよ」
「え?」
「兄貴が強くなりたいってんなら、あっしもそれにお供するでがす。その方が、兄貴の肩の力も抜けるんじゃないでがすか?」
視線を戻すと、あきれたような、不思議な表情が見える。わかっているのかいないのか。
でも、なんとなく、どうしようもなく、救われた気持ちで満たされた。やっぱり、この人は。
「…そうだね、じゃあ明日からお願いしようかな。今日は疲れたから」
さっきまでの不安はどこへやら、軽くなった足取りで宿に引き返す。後ろからついてくる柔らかな気配。
明日は起きていられるかもしれないな、石畳を踏みしめながら、ふとそう思った。