目の前の光景に、ヤンガスの思考が固まる。
明かりの乏しい部屋の中で、静かに動く姿があった。
月明かりの中、こちらに背を向けひとりベッドに腰掛け、胸元の白い布を巻き取っているエイト。
普段は見せることのない首から肩にかけてのラインが藍色の中にうすぼんやりと浮かんでいる。
久しぶりに宿を取れた上、今日は兄貴と同室だ。一体何日何ヶ月ぶりか、別に緊張することも何もないがそれでもやっぱり久々すぎて
どんな態度を取ったらいいのかいやいつもどおりでいいはずなのだが自分が突っ走ったりしないかとか
下手な考えをめぐらせていたせいだろうか、扉をノックするという普通の気遣いさえも忘れてしまったのだ。
本来ならここで慌てて部屋から飛び出すべきなのだが、ヤンガスはそれもできずにその場に立ち尽くす。
エイトがかもし出す雰囲気は声を出すのもはばかられるほどに静まり返り、かつ、張り詰めている。
慣れた手つきで白く細い布を身体から離していく。ひとまきごとにどんどんと薄くなる。
ヤンガスの存在には気づいていないのか、淡々と作業を繰り返す。細い腕が泳ぐように線を描く。
ふと、エイトが手を止めた。気づかれたのかとヤンガスは思わず息を呑む。
しかし後ろを振り返ることないまま、エイトは静かに息を吸い込んだ。深呼吸。
大きく吸い込んだ息を吐き出し、伸ばしていた背筋を曲げる。

…まるで木の葉のように、肌に残されていたさらしが全て解けた。
ヤンガスは思わず目を見開く。いや、見てはいけないことくらいは頭でわかっているのだが
一体この状況でどうしろと下手に動けば感づかれるしかしこれ以上はさすがに刺激が強すぎる
というかそもそもこれ以上の何があるのかと
早鐘のような心拍音だけが響く。今は完全に後ろ向きだからいいものの、これで振り向かれたらたまったものではない。
必死で息をひそめながら、次の行動を見守る。細く薄い肩。

「…気づいてるからね?言っとくけど」
「んなっ」
いきなり話しかけられ、ヤンガスは思わず間の抜けた声を出す。
「あああいやそのこれは別に見ようと思ってたわけではなくただノックを忘れただけというか
いやすぐ出て行けばよかったんでがすがつい出来心でそのまさか気づいてるとは思わなかったというか
気づかなければそれでいいなんていう気はかけらもないでがすがそもそもなんで気づいてたのにそこまでやらかすのかと
いや別に兄貴の考えだからあっしは別にいやなんでもはいすみません」
「…とりあえず落ち着いて」
顔を一切動かさないまま、エイトが制する。とりあえず怒ってはいないらしい。
「まあ、見られてるのにどうかとは思ったんだけどね、これ、一種の儀式みたいなものでさ」
「…儀式?」
「そう。夜寝る前にさらしを解いて、深呼吸する。ただそれだけのことなんだけど…ここ最近宿にも泊まってなかったし、
久しぶりにやろうかなーと思って」
「はぁ」
「で、はずしてる最中にヤンガス入ってきちゃったからさ。なんか途中で止めるのも嫌だし、出てけって怒るのもな…って」
「…いや、それは怒ってもいいと思うでがすが」
「うん、普通に考えたらね。でもそういう気分でもなかった」
あくまでも身体の向きを変えずに、独り言のようにつぶやくエイト。あらわになっている肩甲骨の影が、身体の薄さを物語っている。
普段完全に体型を隠す格好をしているのにも関わらず、細身なのがわかってしまうほどなのだから、
服をまとわない状態の細さは推して知るべし、といった感じだが、それにしても小さな身体だ。
それこそ、兄貴と呼ぶのをためらってしまうほどに。

月明かりの方に視線を向け、エイトはさらに続ける。
「さらしを巻くとね、背中を丸めて歩けなくなる。胸元が圧迫されるから、下が向けなくなる。
僕、もともとかなりの猫背なんだけど、さらしを巻いている間は、胸張って歩けるんだよ。だから毎日そうしてる」
ヤンガスは押し黙りながら、エイトの肩に視線をやる。普段見慣れた肩よりもはるかに小さく、緩やかなカーブを描いている。
着こんでいるせいで日焼けしていないのだろう、白い肌。健康的な色合いではあるものの、どこかはかなげでもある。
「…でもね、さらし巻くと、深呼吸ができなくなるんだ。押さえてるから当然なんだけど、ちょっと息苦しい。まあ、慣れてるんだけどさ。
だから、宿を取ったときくらい、思いっきり深呼吸がしたくて。一人部屋の時とかは、必ずこうしてる」
「…初めて聞いたでがすよ、そんな話」
「だってわざわざ言うことでもないもん。言っていいことなのかどうかも微妙だし」
肩を持ち上げると、エイトは再び大きく息を吐く。ほんのわずかの間だけ許される、些細な贅沢。
「あ、でもね、勘違いしないで。僕、この状況嫌なわけじゃないよ。
さらし巻いてるのも、男のふりしてるのも、ヤンガスに兄貴って呼ばせたままなのも、全部自分で決めたことだから。
朝になったら、また一から巻きなおして、よし今日も頑張ろうって気合入れなおす。そこまでで、一セット」
顔を上げ、すいっと背筋を伸ばす。肩のラインが、凛とした形を作る。
「だから、大丈夫」
何か励ます言葉を、そんなヤンガスの考えを読んでいたかのように、会話を締めくくる。
後姿だが、微笑んでいるように、ヤンガスには思えた。
「…ところで」
「なんでがすか?」
「…そろそろ本気で着替えたいんだけど…」
「あ」
「さすがにそこまでサービスはできないや、ごめんね、三分で終わるから」
「あああわかったでげすすぐ出て行くでがす」
せわしなく、今度こそ飛び出すように部屋を出るヤンガス。扉が閉まった音を確かめ、エイトは静かに振り向く。
困ったように吐き出すため息は、どこか幸せそうでもあった。