「…ククール」
冷や汗をたらしながらヤンガスが階段を下りてきた。
既に朝食を終え食後のコーヒーをすすっていたククールはその表情に嫌な予感を覚える。
「兄貴どこ行ったか知らねぇか」
案の定な質問に思わず固まる。リーダーを起こしに行ったはずなのに一人で下りてきたのだ、予想はついていたが。
知るわけねえだろ、荷物はあったのかよ、ほとんど全部残ってた、兄貴の姿だけがない。
「…なんなんだ一体…今週は乙女の家出週間なのか?ようやっとゼシカの行き先がつかめそうになったらこれかよ」
「ゼシカの姉ちゃんと違って荷物…武器も残ってたからそう遠くへは行ってないと」
「武器まで置き去りとなれば一足先に行ったとは考えにくいな。…しかしなんでまた」
さあ、あっしにもさっぱり、いても立ってもいられないといった風にヤンガスは食堂を見回す。
二人分しか食器の乗っていないテーブルが妙に閑散として見える。と、その上で動くものがあった。
トーポが残ったチーズを一心不乱にかじっている。二人の視線に気づくとひょいと顔を上げ、訳知り顔で見返してくる。
ちぃ、と小さく一鳴きするとテーブルから下り、促すように走り始める。
ついてこいってこったな。俺はここで待ってるから行ってこいよ、
ククールの面倒くさそうな台詞に見送られて、一人と一匹は扉の外へ飛び出していった。
朝の光が差し込む森を抜ける。普段は安全を考えて街道を歩くから、こんな景色の中を進むのは久しぶりだ。
トーポは迷わずに草をかきわけ先へ先へと走っていく。しかしヤンガスとの距離がある程度開くと
ちゃんとついてきているか確認するかのように立ち止まる。
一体このネズミは何者なのだろうか、動物にしては頭が良すぎないか、そんなことを考えつつも、先にいるであろう兄貴の状態が
気になって仕方がない。トーポの様子からして何か大層なことに巻き込まれているわけではなさそうだが、
常に周りに気を配っている兄貴が仲間に心配をかける行動を自ら取る理由が想像できないのだ。
ようやっと仇敵を倒したのに王や姫の呪いが解けなかったことを考えると、多少ヤケになっていてもおかしくはないのだが、
それにしても黙って出て行ってしまうとは。
何かあったなら相談してくれればよかったのに、少し苦い思いを噛み潰しながら小さな影を追いかける。
ふいに、視界が開けた。森を抜けたのだ。森の中との明るさの差に思わずまぶたを閉じる。
目をしばたたかせ、光に慣らす。見えてきたのは揺れ動く水平線と、柔らかな形をした緑のへり。
海が見渡せる、いわゆる絶景ポイントに、探していた人物はいた。鮮やかな色のバンダナが風に揺れている。
「兄貴」
呼びかけると、小さな背中がぴくりと動き、おずおずと振り返る。手にはなにやら大きな紙、世界地図か。
あちこちに赤い丸が記されている。
…こっち、おいでよ。ためらいの混ざった表情で、エイトは口を開いた。
「ここがね、トロデーン。で、まずはこっちの方面に歩いていったの。まずは直轄のトラペッタに向かおうって。
で、この丸印がヤンガスと出会ったつり橋。それから滝の洞窟、リーザス、ポルトリンクがここね。ちなみにチーズおじさんの家はこれ」
嬉々とした、けれどどこか悲しげな、なんともいえない表情をして、エイトが一息にまくし立てる。今まで通ってきた道には全て印が付され、
名前に訪れた日付、特産品まで小さな字で書かれている。
改めて確認すると結構いろんなところに行ってるんだよ、たまにこうやって振り返ってみるんだ。懐かしそうに語るエイト。
そういえばここのメシはうまかったでがすね、ここは今ひとつだった、またそうやって食べ物のことばっかり。
連れ戻しに来たはずなのだがいつの間にやらしっかり話に乗せられ、ヤンガスもまた思い出話を始めていた。
ここがパルミド、この後船を捜しに行ったでがすね、あれ、ゲルダさんと剣士像の洞窟は?…それは言わない約束でがすよ。
小さく笑って、エイトがひとつため息をつく。イシュマウリさんに会って、船を手に入れて、サザンビーク、そして。
そこで話を止めると、急に頭を下げてしまう。地図を握る手に力が入ったのか、しわが入り、字が読み取れなくなる。
「どうしたでがすか、兄貴?身体の具合でも?」
突然黙ってしまったエイトに、ヤンガスは慌てて声をかける。地図で頭を覆ってしまったせいで顔が見えない。
気まずい沈黙が続く。なんとなく、エイトの肩が震えている気がして、ヤンガスはますます心配になる。
彼女が語りやめたのはサザンビーク、次に行ったのは、闇の遺跡。
なんとなく合点がいって、ヤンガスは何とかエイトを励まそうとする。
「兄貴、おっさん達の呪いが解けなかったのは兄貴のせいじゃないでがす。兄貴が気に病むことなんて」
「…違う」
「へ?」
「違う、そうじゃない、そこじゃない、ここに一人で来たのは、そういうことじゃない」
頭を下げたままでエイトがつぶやく。感情を押し込めるような、震えた声。
そのまま再び黙り込む。何を言おうとしているのかわからずに、ヤンガスもまた押し黙る。
地図の端が風に揺れている。ちぃ、心配そうにトーポが鳴く。ちぃ、ちぃ。
「…駄目だ、やっぱり」
しばらくたって、エイトが顔を上げた。地図を地面に広げる。
「ほら、見て。こうして広げるとね、まだ行ってない所、たくさんあるの」
さっきとは全く違うトーンだ。張り詰めたような、無理をしているような、嘘をつくときの声。
心配しながらも、ヤンガスは地図を覗き込む。確かに、まだ世界の半分程度しか回っていない。
「すごいよね、長い間旅してきた気でいたけど、世界はまだ、こんなに広い」
例えばここ、昔本で読んだことがあるんだ、雪っていう氷の粒が降ってくるの、魔法じゃないんだよ、寒くて雨が固まるんだ。
こっちは有名な聖地、神様とかよくわからないけど、大きな女神像があって、それを見に来る人が絶えないんだとか。
楽しそうに話しているのに、心ここにあらずといった感じの、上だけをなぞる台詞。
ヤンガスはあいづちを打ちながら、なんとかその真意を読み取ろうとする。
「行ってみたい所、たくさんあるんだよ。砂漠だって見てみたいし、噂に聞いた地図にない島も探してみたい」
そこでまた、言葉が止まる。少しまぶたを伏せて、どこか自嘲的なため息を漏らす。
図面を隠すように手を地図の上に置く。丸めた背中が小さく見える。
風が流れる。前髪を払うように、首を振る。
そのしぐさが妙にはかなく見えて、ヤンガスは思わず手を伸ばしそうになるが、続いた声色の重さにとまどう。
「…馬鹿だなぁ、僕。そんなこと考えてる場合じゃないって、わかってるのに」
乾いた言葉。エイトは地図をたたみ、海に向かって座りなおす。独り言のように、聞いて欲しいように、また口を開く。
「馬鹿だよね、わかってるのにさ。早く王様たちの呪い解かなきゃいけないって、わかってるのにさ。
一刻も早く呪い解いて、お城に帰らなきゃいけないって、わかってる、のに」
地図を握る手に力が入り、水平線に向いていた視線がだんだんと下がってくる。唇をかんでいるのが見える。
「…それでも、僕は」
黙ったまま、ヤンガスはエイトの顔を見やる。海の音が遠い。
「…それでも僕は、旅を続けたい。みんなと一緒に、ヤンガスと一緒に、もっといろんなところに行きたい。
いろんなものを見て、いろんなことを聞いて、この地図を訪ねた印で一杯にしたい」
だけど。
そこまで吐き出して、エイトは再び口をつぐむ。
わかっているのだ、それが兵士として、王と姫に仕える立場として、最も望んではいけないことだと。
旅が続くということは、呪いが解けないということ。
自分達の旅の理由が呪いを解くことである以上、旅はできるだけ早く終わらせるべきで、寄り道をしている余裕も、
余計なことをする権利もない。地図の印が少なければ少ないほど、兵士としては正しい行動を取っていることになる。
けれどいつからか、エイトは旅そのものに意味を見出すようになっていた。
仕えるのが当然だった日々から、自分で探し物をする日々へ。慕う側から、慕われる側へ。
城の中では絶対に得られないものを、旅路の中で数え切れないほど見出してきた。
今、自分はそれに喜びを感じている。隣にいてくれる人と、気楽に語り合える仲間と、未知の場所に飛び込んで、笑いあい、助け合っている。
兵士じゃない自分、部下じゃない自分を教えてくれたこの道。
急いで終わらせるなんて嫌だ、そんなわがままが、エイトの中で渦巻いていた。
それは、王や姫を裏切ることと同じなのだと、頭ではわかっていても。
エイトは顔を上げた。空を見上げ、ひとつ深呼吸をする。見渡す限りの空、届かない雲。その果て無さを想いながら、ぽつりと落とす。
「…ここに来れば、気分が晴れると思った。海の広さとか、空の青さとか見つめていたら、自分の悩みなんてちっぽけに思える気がした。
いろんなわがまま振り切って、また王様と姫様のために、頑張れる気がした」
再び深呼吸。昇り続ける太陽の高さにあわせて、世界はどんどんと輝きを増してくる。
エイトの想いとは裏腹に、城からは見えなかった景色が、彼女を先へ先へと誘う。
でも、駄目だったよ。それだけ言うと、エイトは首を下げ、ため息をついた。
くしゃ。
突然頭の上にのしかかってきた力に、目を丸くする。バンダナごしでも伝わってくる、暖かくて柔らかい手のひらの感覚。
何も言わないままで、ヤンガスはただ静かに、エイトの頭をくしゃくしゃとなでる。顔はそっぽを向きながら、優しく、力強く、
前に後ろに手のひらを動かす。
泣きたい気持ちになって、エイトは口を結んだ。行きかう指先の確かさが、どうしようもなく、嬉しい。
ひとしきり無言で頭をなでた後、ヤンガスはぽつぽつと語り始める。
雪国の鍋は絶品だとか聞いたでがすよ、世界のどこかに果物だらけの島があるとも聞いたでげす。
そのくらい、おっさんだって許してくれるんじゃないでがすかね、意外に食い意地張ってんだし。
やっぱり食べ物なんだ、まあ、食うことがあっしの生きがいのひとつでげすから。
丸い無骨な手。そのまま掴みあげてしまうんじゃないかと思うほどに大きな手が、呼吸に合わせて動く。
「…答えなんか、出さなくていいと思うでがすよ。つまるところ、あっしらは自分にできることしかできない。
兄貴が進みたいように進んだら、いつかはおっさん達の呪いも解けるし、気づいたら世界一周になってるかもしれない。
呪いを解いたご褒美に好きなように旅してこいと言ってくれる可能性だってある。どうなるかなんて、誰にもわかりゃしないんでがす。
だから今は、できる限りのことをすればいいんでがすよ」
思わず視線をあげた。ヤンガスは水平線の方を向いている。心なしか、耳たぶが赤く染まって見える。
「…いいのかな」
「そりゃそうでがす。だって兄貴はどう思おうと、結局はおっさん達の呪いを解くために頑張るんだし。
あっしはそれについていくでがすよ」
「…うん」
くしゃくしゃ。
そろそろバンダナの中の髪の毛が悲惨なことになってきているのを感じながら、エイトは静かに目を閉じた。
春先の気温以上に、胸の奥が暖かかった。